友人


古麻呂歩

 叔父は遺体の前に座って、一人で酒を飲んでいた。 傍らに置かれた灰皿の上で、静かに煙草の灰が落ちる。 姉は台所で黙々と洗い物をしていた。 父の親友、稔さんは、すっかり酔いつぶれて高いびきだ。 居間のテレビが今日の野球の結果を伝えている。 誰も見てはいないけれど、沈黙を避けるためにそのままにしておいた。

 僕は冷蔵庫から発泡酒を取り出した。

「博史、ビンのやつ飲めばいいじゃない」

「オヤジじゃないんだから……」

父は、缶ビールが嫌いだった。お中元でもらった缶ビールがたくさんあるときでも、 わざわざ母に瓶のビールを買いに行かせた。嘘かホントか、缶は匂いがするのだそうだ。 そんな父も、子供が家を出て、母が亡くなる頃には瓶ビールをやめた。一人で飲みきることが出来なくなったからだ。 最近では値段のこともあり、もっぱら発泡酒を飲んでいたようだ。 久々に酒屋に瓶ビールを注文したのが、父の葬式というのも皮肉なものだと僕は思った。

 縁側に腰掛けて庭を見渡す。 昔、金魚の墓を作った辺りに家庭菜園が作られていた。 なにやら葉っぱがたくさん生えている。 向かいの家はいつの間にか3階建てになっており、隣の家からは犬の鳴き声がした。 隣の家に住んでいた幼なじみは、幼稚園の時に犬に噛まれて以来、大の犬嫌いだった。 彼はもう住んでいないのかもしれない。

 僕の視線が隣家に向いているとき、何かが目の端で動いた。 慌ててそちらに注意を向けたのだが、何も変わったところはなく、視界は元の通りに静まっていた。 しかし、かすかに鈴の音が聞こえた気がした。



 「よいしょっと」

掛け声と共に姉が横に腰を下ろした。

「『よいしょ』って……」

言うが早いか、姉が僕の頭を叩いた。

「しょうがないでしょ。腰が痛くなったんだから」

姉は大袈裟に腰を叩いて見せた。皿洗いだけじゃない。実の親が亡くなったというのに、姉は一日中よく働いていた。

「うちの台所って、流しが低いのよね。だから長い時間立ってると、もの凄く疲れるのよ」

子供の頃は、水を飲むのによじ登った流し台だ。まるで鉄棒のように、片膝を立ててから蛇口をひねる。 水の流れの下に口を突き出し、髪の毛を濡らして水を飲んだ。頬を伝った水で洋服がビショビショになることもあった。 その流し台が、今では低さ故に姉を悩ませている。

「多分あの流しは、お母さんの身長にあってるのよね」

母親の身長がどれ程どのものだったのか、僕の記憶では定かではない。 中学生くらいから見下ろして話していたので、僕より低いことは間違いない。 けれど、見下ろすよそうになって間もなくして、母は家を出ていったのだ。

 姉も発泡酒を一缶開けた。それをちょびちょび飲みながら、僕と同じように庭を眺めていた。

「さっき、台所で黒猫に会ったよ。金の鈴を付けた」

さっきの鈴の音はそいつの仕業かな、と僕は思った。

「急にちりんちりんいうから、ちょっとビックリしたわよ。お父さんが彷徨ってるのかと思って。 慌てて音の出所を探したら、窓から光る目が見えたの。またまたビックリ。 こっちが固まってたら、むこうが『ニャー』だって」

相づちの代わりにへらへらと笑って見せた。姉もふにゃっと笑った。 もう酔っているらしい。

「でもさ、父さんって生き物嫌いだったよね?」

子供の頃に犬も猫も、鳥や金魚さえも飼って貰えなかったことを思い出した。

「そう? 父さんは子供の頃犬を飼っていたと思うけど」

「え、そうなの? 生き物嫌いなんじゃないの?」

「確かに、犬も猫も飼ってもらえなかったもんね。『ダメだ』の一点張りでさ」

父は、よその親が言うような世話の問題などに触れたことはなかった。

本当に「ダメ」しか口にしないのだった。だから僕は、父は相当な動物嫌いに違いないと思い込んでいた。

「お前ら知らないのか」

奥の部屋から叔父が話に入ってきた。

「お前らの父ちゃんは動物が大好きだったんだよ。獣医を目指したくらいだからな。 でも、獣医って動物実験するだろ。あいつはカエルの解剖すら出来なかったから断念したのよ」

僕は姉と顔を見合わせた。叔父は空気が抜けるように笑っていた。

「台所にいた猫はな、あれはあいつの友達なのよ。お前らは家に寄りつかないから知らなかっただろう。 野良猫に鈴付けて、餌やって、医者にもつれていってたんだぞ」

初耳だった。大学入学とともに一人暮らしを始めたのが10年前。それから今日まで、この家に戻ったのは数えるほどだ。 姉は結婚と共に家を出た。僕よりも数年早い。 同居した相手の両親が寝付いていたこともあり、実家に戻ってくることはほとんどなかった。 父自身も働きに出ていたのだから、子供が戻ったところで嬉しいよりも煩わしい方が先に立ったに違いない。

「もしかして、流しの下にあったキティーちゃんのお皿は、あの猫のかしら」

「キティーちゃん?」

「さっき足下にあったのを踏んだのよ。プラスチックだから割れなかったけれど。なんでこんなものがあるのか不思議だったの」

それを聞いて叔父が大きな声で笑った。今度は腹の奥から声が出ていた。

「ちゃんと餌やってこいよ」

 発泡酒を取りに行くついでがあったので、僕が餌をやることにした。そのキティーちゃんの皿を持ち上げると、 黒猫が台所の窓を越えて入って来た。皿の前にちょこんと座った猫は、僕の顔をじっと見ている。 さて、餌は何処にあるのだろう。引き出しをあちこち開けてみるのだけれど、それらしいものが見つからない。 冷蔵庫も開けてみたが、およそ猫の餌らしきものはない。 牛乳をやろうかとも思ったが、皿の浅さを見ると、液体ではないように思う。

「にゃー」

僕がなかなか餌をくれないことに苛立ったのか、猫は皿の前から動き出した。 もしかしたら猫の方が餌の在処を知っているのではないか。僕は猫に着いていくことにした。 たまに迷惑そうに僕の方を振り返りながら、黒猫はすたすた歩いていく。 シッポを突き立てて、鈴を鳴らしながら。 台所から居間を抜け、縁側を通って、そのまま父の側に進んでいった。 父の頭の脇に猫は腰を下ろし、父の顔をしばらくのぞき込んでいた。

「おい、どうした?」

叔父が言った。

「うん。猫が、ね」

僕が答えると、叔父は慌てて父の所に戻ってきた。そして猫を手で追い払った。

「猫は魔性の生き物だから、遺体に近づけちゃダメだ」

「餌の場所がわからなくって」

縁側から姉もやって来た。

「餌は食器棚の上にあったわよ。缶詰が並んでいたから、それをあげればいいんじゃない」

二人の言葉が分かったとは思えないが、黒猫は来た道を戻り始めた。 歩きながら時折振り返るのだが、今度はちゃんと僕が着いてきているのを確かめるような感じだった。

 食器棚の上に並んだ缶詰は、きちんと種類別になっていた。 左から2缶、2缶ときて3缶3缶と続く。 恐らく順番に与えていたのだろう。 それに倣って1つの缶を手に取り、皿に空けてやった。 猫は鼻を鳴らしながらそれを綺麗に食べた。最後は皿を隅々まで舐めていた。 食べ終わると流し台に飛び乗り、蛇口をぴちゃぴちゃと舐めた。 そして入ってきた窓から帰っていったのである。

 発泡酒を持って戻ると、姉がいたずらっぽく笑いながら言った。

「弔問客は帰ったの」

「ああ」

僕もちょっと笑った。 叔父も笑っていたが、すぐに真顔になって

「あいつをどうするかな」

と言った。その言葉に、稔さんがむっくり起きあがり、

「何? 何? どうした」

と、とぼけた声を上げた。


小説の目次へ戻る