ゴロゴロ


古麻呂 歩



 同じ建物の中に同じ様な人間ばかりが住んでいる……。 考えてみれば不思議な感じだよなあ、と井岡は思った。 昼も同じ会社で働き、戻るところも同じ。 このマンションのどこかのフロアの適当な部屋をノックすれば、 必ず知った顔が出てくる。 井岡は人の名前を覚えることはあまり得意ではなかったが、 人の顔を覚えることは比較的得意であった。 朝になれば皆、一様にスーツを着て同じ地下鉄の駅に向かう。 そして同じ建物の各フロアに散っていく。 就業時間を迎えれば、三々五々、再び同じマンションに戻ってくるのだ。 入社して三月と経たない井岡だが、同じ社員寮に住む人間の大半を記憶してた。

 ベランダに出て煙草を吸いながら、井岡はマンションの入り口を見ていた。 地下鉄の駅の方向からぽつぽつとサラリーマンが戻ってくる。 上着を脇に抱え、Yシャツの袖をまくり上げた小太りの男が見えた。 あれは……確か、営業の人だったな、と井岡は思った。 朝、体に似合わない小さな営業車に乗り込む彼を見かけたのだった。 続いて現れたのは頭のはげ上がった、やせた男だった。 あの人は……経理の人。ここに住んでいるってことは、あの人も独身なのか、と井岡は思った。 煙草が苦い。 煙草をそろそろ消そうかと思ったとき、渡辺の姿が見えた。 手を振って名前を呼ぼうかとも思ったが、ここが都内の真ん中であることと、 自分も渡辺もいい年をした男であることを思って、井岡は口をつぐんだ。 しかし、彼の茶目っ気はそのまま鎮まることはなく、井岡はあわてて部屋を出てエレベーターに飛び乗った。

 渡辺は郵便受けのダイヤルを回した。 はみ出していたのはやっぱり風俗のチラシで、耳としっぽを付けた女がウインクしていた。 ピザ屋のメニュー、引っ越し業者のチラシ、宅配寿司、デリヘル、デリヘル、ピザ屋。 携帯電話の明細、洋服屋のDM、宅配便の不在通知、宅配ビデオのチラシ。 一つ一つを確認しながら必要な物だけを鞄にしまい、渡辺は残りをゴミ箱に押し込んだ。 同じ様なチラシですでにいっぱいだったが、無理矢理に詰め込んだ。 自動ドアをくぐり、エレベーターのボタンを押そうとした瞬間、エレベーターの扉が開いた。

「おかえりなさ〜い」

 エレベーターから、井岡がおどけた調子で現れた。

「ただいま」

 渡辺が鞄を差し出しながら答える。それを受け取った井岡は、今まで以上におどけた調子で 「お疲れさま、お疲れさま」と言った。

 渡辺が部屋の扉を開けると、暗闇から鈴の音が鳴った。 部屋の電気をつけると、渡辺のスニーカーの上にちょこんと黒い猫が座っていた。

「悪魔、ただいま」

「悪魔ぁ〜」

 井岡は黒猫の"悪魔"を抱き上げ、渡辺に先立って部屋にあがった。そして、一つだけある座椅子にあぐらをかいて座り、 テレビの主電源を押した。

「渡辺さぁ、主電源でテレビつけるの面倒臭いよ」

「電気代の節約」

 井岡が黒猫をなでている間にスーツを脱いだ渡辺は、それをきちんとハンガーに掛けてから台所に立った。 冷蔵庫を開けると、保存容器が整然と並んでいた。

「そうだなあ……。井岡、今日の昼は何食った?」

「マック。金がないんだよね」

 そんなことじゃあ体に良くない、と言いかけたが、渡辺はその言葉を飲み込んだ。 もともと料理が得意だった渡辺だが、学生時代のアルバイトを通じてその腕前はプロはだしとなっていた。 彼の興味は栄養学にまで及び、通信教育で栄養大学の講座を受講したほどだった。

「朝食はもちろん抜きだろ?」

 冷蔵庫を見回しながら渡辺が尋ねると「ピンポーン」という間の抜けた声が聞こえた。



 渡辺の手料理を平らげ、井岡は皿を洗っていた。 さすがの彼も、皿洗いは自分の担当と心得ている。 流し台の横で黒猫が寝そべり、首を窮屈そうに曲げて腹の毛をなめていた。 時折水しぶきがかかるけれど、いっこうにかまう様子がない。

「悪魔はおとなしいよな」

 井岡は実家で飼っていた猫のことを思い出していた。チョコというその猫は、人が何かをしていると必ずゴロゴロと身をすり寄せ、 振り向いてもらえなければ伸び上がり、足に爪を立てていた。 太股に爪を立てられれば、誰であっても自分の方を向く。そのことをチョコは知っていたのだ。 チョコは我が儘だけれどかわいい猫だった。 それに比べれば、悪魔という猫は分別がありおとなしい。反面、愛想がないということもできるかもしれない。 皿洗いが終わった井岡がしゃがみ込んでなで回していても、我関せずといった風だった。

「ゴロゴロとか言えよ」

 そんな井岡の言葉に猫が答えるわけもなく、それどころか井岡の事すら見えていないようだった。



 井岡が入り浸っている事から、渡辺の料理の腕前は同僚の知るところとなった。 当初、"怪しい関係"と、はやし立てられたのを取り消すために、必然的に広まったのだった。 学生時代、サークルを束ねる連合会の会長をしていたという同期の加納が、ある日こんな事を言いだした。

「みんな同じマンションで生活しているのに、あんまり交流ってないよね。せめて同期の人間だけでも、たまには集まろうぜ」

 そこでありきたりの飲み会が設定されるのかと思いきや、加納は渡辺の部屋での飲み会を提案した。 噂の料理を食べてみたいというのである。 井岡は、渡辺が嫌がるのではないかと思ったが、意外にも「素材は調達してくれよ」という条件付きで 開催が決定した。 早速社内メールで参加者を募ったところ、同期十人の内、九人が参加することになった。 実家で叔母さんの三回忌があり欠席することになった一人は、参加できないことをとても残念がっていた。 出欠の返答のメールには「日にち変更してくれない?」と書かれていたが、加納は「無理。次回参加を!」 と返信したのだった。



 その日の朝、井岡は加納と一緒に、あらかじめ参加者の部屋を回った。 皆、実家から食料の差し入れを受けているのだが、なかなか自分では調理できないでいる。 米だったり野菜だったり、缶詰だったり。それらを持ち寄り、渡辺に調理してもらおうということになったのだ。 朝の内に渡辺の部屋に運び、足りない物を買い足すのが井岡の担当だった。

 302号の横田は、親が作ったというジャガイモを出すという。 送ってきたままの小さな段ボールごと、井岡はそれを受け取った。

「こんなにいいの?」

「いや、放っておいたら芽が出るから……。それに、どうやって食えばいいのかわからないんだよね」

 306号の坂井は、卒業の時に後輩がくれたというシャンパンを出した。

「すぐ食える物じゃないから悪いんだけどさ。俺、そんなに酒飲めないから」

「そうだな、シャンパンは開けたら飲みきるようだもんな」

 F1の表彰台で振るようなシャンパンの瓶を井岡は受け取った。 自分で買ったことはないけれど、これはかなり高価な品ではないのだろうか、と思った。

「こんな高い物、いいの?」

 傍らにいた加納が問うと、坂井は笑いながら手を振って「もっていけ」というジェスチャーをした。

 501号の金井は、キムチを壺でくれた。 実家が焼き肉屋だという彼は、ニコニコと愛想良く「嫌いな人が居たら悪いんだけどさ」と言った。 「俺、大好き」加納が答えると。より目尻を下げて「よかった」と答えるのだった。

 610号の豊田、802号の木下、803号の薬袋と部屋を回った。 そして皆が出したたくさんの食材を、渡辺の部屋に運び込んだ。 井岡はメモとペンを手に、渡辺に尋ねた。

「何を買ってくればいい? 足りない物は?」

 渡辺の頭の中で何かが組み立てられていき、いくつかの食材が挙げられた。 井岡はそれらをメモし、スーパーへ。加納も一緒にマンションを出たが、途中で酒屋へと向かった。

 渡辺が綺麗に盛りつけた料理が、あっという間に食い散らかされ、そしてすべてが消えてからも酒盛りは続いていた。 狭い部屋に大の男が九人も集まると、さすがに窮屈だったが、それなりに各人のスペースは確保されていた。

「あ、猫だ」

 それまでは食べることに精一杯だった彼らのもとに、黒猫が姿を現した。台所仕事を終えて、 飼い主である渡辺がみんなのもとへやって来るのと同時に姿を現した。そして、大勢の人間がいる光景に慣れてくると、 猫は男たちの間をゆったりとした足取りで歩き回った。 さすがに渡辺と井岡以外の人間には警戒している様子だったが、飄々とした態度はいつもと変わらない。 なでたり、こづいたりする人間の手など気にもとめないようだった。

「うちのマンションってペットOKなの?」

「知らない。バレなきゃいいんじゃないの?」

「猫ならいいじゃん。あのさ、うちの隣の家なんか蛇飼ってんだぜ。逃げたらどうすんだっての」

「蛇? 毒はないんだろ?」

「大蛇?」

「いや、しましまの細い蛇。30センチくらいかな」

「なら、いいよ。別に噛まれても死なないし」

「俺、蛇嫌いなんだよ」

 酒が入って、ほんの些細なことにも大きな笑い声があがった。黒猫は男たちの周りをゆっくり回っていたが、やがて木下の横に座った。 そして、前足を彼の膝に起き、目を細めてゴロゴロ、ゴロゴロとのどを鳴らした。 その様子に気づいた井岡は、大げさな声で驚いて見せた。

「あー、悪魔がゴロゴロ言ってる! 何だよ、お前いっつも愛想ないくせに!!」

 渡辺もやや落ち着いたトーンで言った。

「そうだな、珍しい。こいつがのどを鳴らすところを初めて見たよ」

 黒猫はそんな言葉など聞こえないかのように、ゴロゴロ、ゴロゴロとのどを鳴らし続けた。

「……俺、動物って苦手なんだよな」

 木下が申し訳なさそうに言う。「すまない」とばかりに、渡辺が黒猫を自分の膝に取った。 しかし黒猫はそこをするりと抜けだし、他の人間の手もかいくぐり、再び木下のもとへ行くのだった。 そしてゴロゴロ、ゴロゴロ言い続けた。

黒猫ウォーキング


 同期の飲み会からしばらくして、人事異動があった。 あの飲み会に出席した者の中にも転勤になった者が居た。 金井が九州へ、加納が千葉へ、そして木下が四国へ転勤することとなった。 引っ越しの手伝いは井岡、渡辺を始めみんなで行い、そのまま近所の焼き肉屋へなだれ込んでささやかな「お別れ会」を開いた。 それが同期で集まった最後だった。音頭取りの加納がいなくなったことと、それぞれがそれぞれの仕事で忙しく、 なかなか都合が合わないということもあった。

 井岡は営業に配属になり、生活はかなり不規則になった。 渡辺と井岡は相変わらずの付き合いを続けていたが、それでも井岡が渡辺の部屋を訪ねる頻度は減っていた。

 「悪魔、お邪魔するよ〜」

 久しぶりに早く帰った井岡は、マンションの入り口から渡辺の部屋を見た。 明かりがついていることを確認し、自分の部屋に戻らずに渡辺の部屋に向かった。

「渡辺、何か食わして。今日は昼飯食えなかったよ」

 そう言って座椅子に座る井岡に、渡辺は冷蔵庫の前から声をかけた。

「なあ、井岡、お前知ってる?」

「何?」

「木下……、四国に行った……、あいつ入院したんだって」

「何? 事故かなんか?」

 渡辺は冷蔵庫からキャベツを取り出し、葉をむしりながら井岡に近寄った。

「いや、癌らしい」

「は?」

 井岡は素っ頓狂な声を上げた。

「いや、今日、うちの課長と部長が話してたんだ」

 渡辺は総務に配属になったので、会社内の情報に明るい。良くも悪くも色々なことを聞いてくる。

「かなり悪いらしいんだよ。木下の親からも連絡が入ってて……。会社辞めるかもしれないって」

「マジ? え、全然元気だったじゃん」

「そうだよな」

 渡辺はそう言って、台所へ戻っていった。その様子を見て、井岡はこのことはしばらく黙っておこうと思った。

「……お前の好きだった木下が病気だって、悪魔」

 そして小さい声で、膝の上の黒猫に語りかけた。猫はしっぽをゆらりゆらりと揺するのだった。



 木下のことは心の片隅にあったものの、井岡も渡辺も仕事に忙殺されていた。渡辺ですら心配するきっかけがなかった。 夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬になる頃、木下の訃報が届いた。 社内メールで会社中に知れ渡る前に、井岡は渡辺からの電話でそのことを知った。 これからその訃報をメールにして送信するという渡辺は、文章を書く前段の作業を行うように電話をしてきた。

「胃癌……スキルスってやつらしい」

 営業車を路肩に止め、携帯電話から流れる渡辺の声を井岡は聞いていた。 間接的すぎて、全てが嘘かもしれないと思った。反面、自分の命が後わずかであるという錯覚にとらわれ、空寒い感覚もあった。

「実家はどこなの?」

「青森。葬式は実家でやるんだってよ。喪主は親父さん」

「そうか」

 同期としてどうするか、加納と連絡を取って決めることとした。



 「悪魔になつかれたから……だから死んだのかな」

 結局、皆仕事の都合がつかず、葬儀へは同期は誰も出席しなかった。 弔電と香典、金で片の付く弔いをした。 しかしそれを決めるだけでも大変なことで、加納が間に入って奮闘した結果だった。 渡辺の作った夕飯を食べながら、井岡が言った。

「悪魔に魅入られた。死に神を呼んだのか?」

 膝に乗せた黒猫をなでるが、猫は迷惑そうにしっぽを振っていた。

「俺も連れて行かれちゃうのかな」

 口に出してみると、思ったほどはぞっとしない言葉だった。 ティーサーバーに紅茶をいれ、渡辺が台所から現れた。 そして唐突にこう言った。

「猫がゴロゴロいうのってどんなときだと思う?」

「知らん」

 黒猫のしっぽが止まった。井岡は渡辺の作った料理をせっせと口に運んでいた。

「嬉しいとき、甘えたとき……」

「ああ」

 井岡の気のない返事は、あってもなくても良いように渡辺は続ける。

「それから死にそうなときなんだってよ」

「あ?」

 井岡は目だけを渡辺に向けた。

「それってエロい話?」

「いや。猫は単独行動をする生き物なんだ。だから自分がけがをするって事は、死に近づくことだろ」

「ふんふん」

「早くけがを治したいわけだ。その手段がゴロゴロなんだと」

「は? わかんないな」

 渡辺は紅茶をマグカップに注ぎ、湯気を吹き飛ばしながら一口飲んだ。

「いや、加納に電話したときにヤツが言ってたんだよ」

 さらに一口飲んで、続ける。

「競走馬の治療で、猫のゴロゴロと同じ周波数の振動かなんかを与える方法があるんだって。そうすると骨折とか早く治るらしい」

「へー」

 皿の上に何もなくなると、渡辺は紅茶を井岡にも入れてくれた。

「うちにみんなが集まったとき、悪魔が木下になついてゴロゴロいったよな」

「ああ」

「こいつには木下の病気がわかったのかな、って思って」

 二人は黒猫に視線を落とした。猫のしっぽは再びゆらゆら揺れていた。そして目を細めていた。

「木下の癌はスキルスってやつで、進行が早いんだそうだ。本人もあの時点では自分が病気だとは気づいてなかった。 秋口に倒れて、そのまま入院。そのまま……だよ」

 井岡はしげしげと膝の上の黒猫を見た。

「お前は治そうとしたの? それとも木下に教えようとしたのか?」

 渡辺も黒猫をのぞき込み、艶のある毛を流れに沿ってなで始めた。 心なしか膝の上の猫が重みを増したように井岡は思った。


小説の目次へ戻る