ゴキブリ


古麻呂歩

 いつの間にか炬燵で眠っていた。 しびれた体を持ち上げると、両手の温度が違う。 暖まっていた方と、そうでない方。 冷たい手を辿っていくと、若干肩の辺りにしびれを感じた。

 炬燵の上を見渡すと、皿などはきちんと片付けられている。 しかし、ビールやワインの空瓶、飲みかけのグラスなど酒に関するものは きちんと卓上に並べられていた。 まるで、前科を突きつけられているようだった。

 酒のせいか、炬燵で寝たせいか喉が渇いていた。 皮膚が喉仏にくっついてしまったように。 取りあえず、グラスに残っていたワインを飲んだ。 気が抜けて酸味だけが強くなった白ワインだった。 それだけでは喉の渇きは収まらず、私はキッチンへ向かった。

 キッチンへ向かう通路は、次第に温度を下げていく。 ひんやりとした空気が鼻先に当たる。 それが頬を抜け、耳に至った。 手探りで電気をつける。 絵にしたなら「シーン」という文字が浮かびそうなほど、四角四面の光景だった。 全てが綺麗に片付けられており、皿もコップもきちんと収納棚に収まっていた。 ついさっきまで妻が、ここで忙しそうに煮炊きをしていたなんて嘘のようだった。 火の気がないのは当然だが、まるで生命感がないのだった。

 私は蛇口をひねり、その下に手を出した。 せっかく綺麗に片付けられた食器を汚すことが躊躇われたからだ。 温度が近付いてきた両手をこすってから、手のひらに水をすくった。 そこに口をつけて飲むと、意外に美味しかった。 だが、いかんせん量が不十分だ。 手のひらから伝い落ちた水滴がシャツの袖口を濡らしていた。 その冷たさを感じながら、私はまた手のひらに水をためた。

 殺気というと大袈裟だろうか。 まだ浮いた感じだった私の感覚が、妙に鋭くなった。 何気なく顔を上げると、そこにいたのは小さなゴキブリだった。 茶色い羽を持ったそいつは、体の割に長すぎる触覚をせわしなく動かしながら、 流し台の縁を歩いていた。 私は水を飲みながら、その動きを観察していた。 ゴキブリはもちろん好きではないが、目の敵にしているわけではない。 このときに限って言えば、私だけが動いていた世界に現れた共存者に安堵感を覚えたのが半分、 見てはいけないものを見たような感覚が半分だった。

 ゴキブリはノロノロとした足取りで、時折姿を隠しながらキッチンをほっつき歩いていた。 もし食器や布巾などに足をかけようとしたなら、私も撃退することにしただろう。 だが、ヤツはガス台とその周囲の壁という範囲でしか動かないのだった。 実害がないということも、私を観察者にしたのだろう。

 細くて長い触覚は互い違いに動いていた。まるでラジコンのコントローラーみたいだと思った。 ゴキブリ自体の動きはノロイくせに、触覚は別の生き物のようにガチャガチャ動く。 なんとなく、その触覚をつまんでゴキブリを捕獲してみようかという気になった。 しかし、すぐに「ゴキブリは汚い」ということを思い出してやめた。

 私は妻がまだ彼女だった頃のことを思い出した。 私の家に来て、手料理をご馳走するという彼女が、ゴキブリを見て卒倒しかけたことがあった。 普段は勝ち気で、何事も冷静に対処していたのに、その時だけは普段よりも数段高い声を上げていた。 言葉にならないとはああいうことを言うのだろう。 赤ん坊が、出来ないながら何かを話そうとしている時のように、何かを発していた。

「どうしたの?」

と台所を覗いた私に、指を差すことでゴキブリの存在を伝えた。 あんなにうろたえた彼女は、他に見たことがない。



 「何してるの?」

急に声をかけられて、私は驚いて振り返った。 そこには眠そうな妻が、毛布を持って立っていた。

「いや……」

私は妻にゴキブリの存在を知られてはいけないように思った。 その様が怪しかったのか、妻は問いつめるように私を見詰めた。

「あ!」

私の目の端にも映ったのだが、その時ヤツが大きく壁を横断していった。

「ゴキブリ!!」

妻が声を発した瞬間、私の中で再び始まりかけていた先ほどの回想がピタッと止まった。 妻は私に毛布を押しつけ、すっと屈むとスリッパを手に持った。 そして、ゴキブリをパンともの凄い音を立てて叩きつぶした。 一連の素早い動作に、私は身動きできなかった。

 ゆっくりと足下に戻されたスリッパ。 壁に残った触覚と、落ちたゴキブリ。 妻はキッチンペーパーをくるっと一巻き手に取り、それをなんなく丸めてゴミ箱に捨てた。

「さ、寝ましょう」

キッチンを後にする妻に、私は黙って続いた。


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